アロハ
シアトルのGAYプライドWeekの報告ですが、まだ続きます。
ようやくパレードの部分が終わり、これからプライドフェスティバル会場に移動。
前にも書きましたが、PRIDEパレードは何度も観てきましたが、参加したのは今回が初めて。
誰にでも初挑戦というのもはあります。
これに年齢は関係ない。
20代でも30代でも40代でも50代でも初挑戦なものは沢山ある。
何でも初めて挑戦する時というのは多少は緊張するものだと思います。
いままでやったことがないことに関わるのですから、色々と考えたり、感情的に反応したり、怖じ気づいてしまったりすることがあっても当然だと思います。
ロスのGAY友から「一緒にパレードに参加しない?」と話しがあった時に、両手離しで「ワーい、参加します☆」と歓声をあげて返事したわけではありませんでした。
昨年は端から見ていて、もっと身近に感じてみたいと思っていたので、「いいですよ。脇から観ているより参加した方が面白いと思うから」という冷静な返答をしました。
最初の時点では二人ともあまり深く考えてなかったと思います。
GAY友がロスからやって来た時点から私たちのスケジュールは結構つまり気味で、アレヨという間にパレードの朝になってしまったということもあります。
パレード前夜時点でも深く考えたり、思いを馳せたりする時間はありませんでした。
スケジュール的な忙しさがパレード参加に対して深く考える時間をくれなかったのです。
前夜でも、翌朝起きたらその他の参加者たちとの待ち合わせ地点に行くことだけが目的で、向かう途中でもパレードに参加するということに対してあまり反応してませんでした。
気分的にはいつもと同じな感じ。
大した気構えもなければ、心配も懸念もない。
何となく楽しい感じはしていましたが、期待感でワクワク一杯だったわけでもありません。
そして実際にパレードを歩き終わって思ったのは、歩いてよかったということ。
端から観ることと、実際に中に入って歩くことは比較できないと思います。
どちらがよいではなく、別モノとしか書きようがありません。
外からパレード参加者を観る
中からパレード参観者を観る
これは同じパレードというイベントを中心にしていますが、全く違った観点を与えてくれます。
理想的には両方とも体験することができればベストでしょう☆
昨年は参観していて、もっとGLBTコミュニティーに近づいてみたいと思いました。
そして今年は実際にパレードの中に入ってみた。
その結果として、もっとGLBTコミュニティーという世界を身近に感じられて、今後もそれと常に繋がっていたいと思いました。
ひとことでGLBTコミュニティーと言っても色んな姿があります。
GLBTタウンに住んでいたり、バーやクラブに出かけるだけでもGLBTコミュニティーの中にいる感じはします。
しかしそれは大枠の中にいるという感じで【GLBTコミュニティー体験】とは言いにくいものです。
パレード参加の場合は、連帯感がそれよりも遥かに強く感じられました。
同じ何かを共有している、同じゴールに向かっているという感覚は、まったく赤の他人を身近に感じさせてくれます。
全く知らない人たちなのに、簡単に近づける感じがする。
敵対心とか、恐怖心とか、緊張感とか、変な距離感などというネガティブ系の感情が消えてしまうのです。
これを団体心理または集合意識というのだと思います。
デモ行進などに参加したことがある方は理解しやすいと思いますが、大きなグループの中にいて、同朋と同じ目的に向かって進んでいると、その連帯感で恐れや緊張が少なくなる。
反戦・反核運動などは怒りを表明する傾向の強いものです。
先日ダウンタウンの中でイスラエルに関するデモ行進が行われていたのですが、こちらは明らかに憤りと怒りを通じた表明でした。
GAYパレードの場合は反体制という部分は少なく、祝典の延長線です。
基盤がフェスティビティなので、パレードの中で憤りや怒りなどは全く表現されなかったし、エネルギーとしても感じませんでした。
現在のアメリカでは、多くの州で同性婚を認めさせるための運動が精力的に行われています。
ワシントン州はスデにGLBTの市民権も、同性婚も法的に認められているので、政府や一般大衆を相手にして何かを訴える必要が少なくなったのも怒りや憤りが表現されない大きな部分だと思います。
残されている課題といえば、GLBTに対するフォビアを少なくすることくらいではないでしょうか。
シアトルのGLBTコミュニティー的には、憤りや怒りを通じた政府や社会に向けたデモ行進的な表現は卒業してしまったのだと思います。
フェスティブなGAYパレードの中で感じたのは、人々の自由さです。
前にも書きましたが、パレードに参加していた方々はGLBT市民だけではありません。
たぶん参加者の半数近くがGLBTの家族や友人、同僚を持っているヘテロ市民(異性愛者)の方々です。
GLBT+ヘテロ市民(異性愛者)のサポートによって造り上げられたパレードだということです。
GLBT+ヘテロ市民の違いは性的な趣向だけ。
この部分を外してしまえば、人間という部分では生物学的には同じです。
現在の反社会+反政府に訴えるという方向性がないフェスティブなエネルギーのGAYパレードの中に、違和感なく入れるヘテロ市民のことを少し考えてみました。
いったいどんなところでヘテロ市民がGLBTの輪の中に入りたいと思うのか?
アメリカの場合は「フリーダム:自由」だと思います。
パレードであれデモ行進であれ、それらの社会的なイベントに参加する意識の根本は〝自己表現〟です。
社会に対して自分の考えや信条を表現する意識がなければ、パレードやデモ行進などには参加しません。
何かを表明する、表現する意識があるから参加するわけです。
表明したい、表現したい意識ともいえます。
権利の平等を巡るGLBT解放運動も、黒人解放運動、女性解放運動も、その根本を辿っていくと、表現の自由、 宗教の自由に行き着きます。
アメリカの象徴の一つである〝自由の女神〟が象徴するように、アメリカは基本的には自由主義の国です。
GLBTという性の在り方に固執していない、それを許容できるヘテロ市民の方々は〝自由である〟ということをよく知っているのだと思います。
GLBTとしてGAYパレードに参加することは、自分自身がGAYであるという自意識を高めるエンパワーメントにつながります。
参加するのは自分の意思表明だからです。
自分で心を決めないと参加できない。
ヘテロ市民でもそれは同じです。
GLBTパレードにヘテロ市民として参加するのは自分の意思表示・表明です。
GLBT市民と一緒に楽しくパレードに参加していたヘテロ市民たちは、自分たちの自由さをGLBTを通じて表現しようと試みているようにも見えました。
よく考えたら、女性であることを訴えるテーマのパレードは聞いたことがありません。
それと同じく男性であることを訴えるパレードも聞いたことがない。
それはヘテロ社会がマジョリティーだから訴える必要はないからです。
そのためにGLBTパレードのようなものが存在しないのです。
乳ガン克服や癌リサーチなどへの、チャリティーを目的にしたスポーツやウォーキングEVENTは色んな場所で開催されています。
しかしパレードクラスのイベントとは比べられない小規模なものです。
プライドパレードの中にゴシック系のグループが過去13年間に渡って参加していることを書きましたが、これがよい例だと思います。
▲ゴシック系のパレード参加者たち
彼らの中にもGLBTの方々はいると思いますが、参加者の全員がそうだとは思えませんでした。
たぶん殆どの参加者はヘテロ市民です。
きっと彼らは自分たちのマイノリティーさと、自分たちのグループを表現するために、GAYパレードに参加し続けているのだと思います。
さもなければ他にチャンスがあるとは思えません。
自由なGAYパレードの中なら自分たちも自由に表現ができるし、アピールできる。
これと同じようにヘテロ市民のサポーター達もGAYパレードを通じて自分たちの存在をアピールしています。
その基盤になっているのが〝フリーダム・自由〟だということです。
フリーダムを求めるGLBT主体のパレードの中で、自分たちも自由になれる。
フェスティビティとして一緒に参加できる。
これがPRIDEパレードの持つ、GLBT市民とヘテロ市民が一緒になれるダイナミクスだと思います。
PRIDEパレードの中に、何かしらの魅力がなければヘテロ市民の参加者は少ないはず。
そしてヘテロ市民が参加して楽しくなければ次回は参加しないでしょう。
PRIDEパレードに参加するヘテロ市民には、彼ら独自の参加意義があるのは明確です。
来年は参加者たちの声も聴いてみたいと思いました。
続く☆
【関連記事】
- ①シアトルのプライドウィーク
- ②GLBTの購買力
- ③若いレズビアンの白昼堂々キスに感化されたワタシ
- ④街を創造するアマゾンPOWER!
- ⑤確立されているGAYコミュニティー
- ⑥バイセクシャルは海洋哺乳類?
- ⑦パレードでラグビーしちゃう自由さ☆
- ⑧市民総出でGLBTを支援する街
- ⑨ロンドンでは大人ひとりに12.1人のGAY友がいる
- ⑩メジャースポンサーはGLBT層のシェアが欲しい
- ⑪ラクジュアリーコンドが並ぶベルタウン
- ⑫スペースニードルに到着